nagasaki

長崎県のエンジョイ精神は異文化のごった煮が生んだ?

ハウステンボスがあって、トルコライスもある・・・・・・国際色は、いまだに豊かである長崎県。 

開放的で斬新、細かいことにはこだわらないと言うかむしろルーズ?

好奇心がとても旺盛で、趣味を大事にする傾向があります。

県民の気質は わ(和)か(華)らん(蘭)?

長崎県は古くから中国や朝鮮といった交易の本拠地であり、戦国時代にはポルトガル・オランダなど西洋の船も訪ねてきた歴史があるためだろう、今となっても異国情緒が漂っている。

また、外国の新たな文化とどこよりも先に接触したところから、神戸や横浜に引けを取ることなく「日本国内で最初」というものがたくさんある。

具体的に言うと、食べるものに関係するものだけでも、コーヒーにパン、ビールやカボチャ、ジヤガイモ、トウモロコシと上げていくと数えきれないほどだ。

長崎の食べるものと言ったら、長崎ちゃんぽんと並んで名が知れているのがカステラ。

このカステラを日本国内で初めてつくったのは殿村寿助という船大工で、その方の子孫が運営するのが「福砂屋」というカステラの老舗と言われている。

「カステラ一番、電話は2番……」で良く知られている文明堂も、創始者の中川安五郎が長崎で製造法を受けている。 

ちなみに、カステラの味は長崎~東へと広がるにしたがい濃厚になったそうで、元々は淡い味だったという。

販売方法もいろいろで、ある京都の菓子屋では、「大根おろしやワサビをプラスして酒の肴に」「二日酔いの薬に」という風に、まるで万能薬の効能書きといったキャッチコピーをつけてカステラを販売していたそうだ。

このような多くの食文化の歴史をもつ地域に生まれ育った長崎県人。当然ながら「進取の気性」に富んでいて、「食生活を満喫する」人がたくさんいるという。

そんな食通が長崎県人にたくさんいるのも「あくせく慟くことよりも趣味そして遊びが大好き」だという県民性によるもの。 

今の時代でも、佐世保市の「佐世保バーガー」は、日本中のグルメをうならせるという。雑煮も、島原の地域の雑煮は「具雑煮」といって海の幸や山の幸がいっぱい。

なんでも島原の乱のときに天草四郎が籠城用に蓄えさせた餅・野草・山菜で雑煮を食べて飢えをしのいだことが由来だとか。

そのことが、後になってぜいたくな具入り雑煮となったそうで、正月だけに限らずふだんの日にも頂いているという。

こういった長崎の食生活を、長崎県の人は「和(日本)華(中国)蘭(オランダ)というとよ」。

代表的長崎県人・福地桜痴のライフスタイル

温暖な気象状況にあり、早くから異国文化にふれてきた長崎県人は、食べ物だけでなく「日々の生活全般を楽しく過ごそうとする」性向が強いという。

平たくいうと、あくせく働くだけの生活だけでなく、「人生をエンジョイしようとする」人が多いということだ。

そう言った長崎県の気質を端的に示すような生き方をしたのが、明治時代のジャーナリスト、福地桜痴こと源一郎。

福地は1868(明治元)年に「江湖新聞」を発行したほかに、1874(明治7)年には「東京日日新聞」の主筆となって、「会社」ということばを一番初めにつかった、言ってみれば日本のジャーナリストのはしりのような人だ。 

その福地は、好き勝手、したい放題のような人生をおくっている。

はじめに、幕臣と「鳥羽・伏見の戦い」に出陣したものの、前将軍の徳川慶喜がこっそりと江戸に逃亡してしまったので、福地は同僚と一緒に大坂城に取り残された。

誰も存在しない城内で、福地らは誰かが忘れたいった鴨鍋用の鍋と材料を見つける と、「官軍に城を明け渡すのはしかたないとしても、これまで渡すことはなかろう」と、パッと食べてしまった。

その後に、江戸に出た福地は、吉原の存在を知ると連日、通い詰めた。あっという間に持ち金は底をつくが、布団を販売してまで通い続ける。

「東京日日新聞」の主筆となり羽振りが良くなると、吉原を訪れる前にそそくさと原稿を書き上げるというのが日課になったという。 

けれども、最盛期が去り名声が衰えると、さっさと東京日日新聞を辞め、晩年は演劇や歌舞伎の改良に力を注いだ。ちなみに、東京の歌舞伎座を創立したのも福地だった。

300年前に「対馬の精密地図」を制作した好奇心 

日本国内で真っ先に実測地図をつくったのは、江戸後期の測量家である伊能忠敬。 その地図の正確さは、幕末にイギリス人が「日本の沿岸を測量させろ」と幕府に言ってきた際に証明されている。

攘夷の気運が活発なときだっただけに、不用意に「どうぞ、ご自由にしてください」などと許可したら、とんでもない騒ぎになる。 

そこで、忠敬が測量した地図を見せると、そのあまりの正確さに舌を巻き、「こんなものがあるなら、測量なんか必要ない」と止めることになり、ことなきを得たという。 

そのような精密地図をつくった忠敬だったが、実は、その彼も舌を巻くとんでもない地図が長崎県の対馬でつくられていたのだ。 

忠敬が幕府の命令を受け、全国を測量を行ないながら歩いていた1813(文化10)年、忠敬たち測量隊は対馬を訪問した。

そこで、対馬の役人から差し出された「元禄国絵図」を目にした忠敬らはびっくり仰天。「これはこれは、くわしき御絵図でございます」と絶賛したという。 

その絵図は、徳川家康の命令を受けて、元禄時代に対馬藩が2年かけてつくったもので、忠敬の地図より100年以上も早い。

南北3.6メートル、東西1.68メートル(畳4畳分くらい)で、狩野派調の美しい彩色もされている。宇宙衛星から撮影した対馬の画像と比較してみても、どちらが写真かわからないほどの精密さだ。 

当時は計測器や測量技術も発達していなかっただけに、どのようにしてこのような正確な地図をつくることができたのかというのは謎とされている。

しかし、どうやら、文化事業に力を注いだ対馬藩が莫大な金と労力を注ぎ、磁針盤をつかってつくったらしいという。 

そのようなことができたのも、対馬藩が朝鮮貿易の本拠地であり、藩財政が潤っていたからだっただろうが、長崎県人の「旺盛な好奇心」ともけっして無関係ではないはずだ。