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どうして、北海道だけが「道」?~都、府、県ではダメだったのか

とにもかくにも広い、せせこましくない、歴史も深くない……なので住む人たちも寛大で周りの目をスルーできる?

スタイルにもとらわれず、結婚披露宴は会費制、香典に対しては領収証と、思いもよらない習慣もあるけれども素朴で正直な働き者と言われている北海道人。

県名に秘められた「おおらかさ」とは?

北海道の縮図をよくよく見ていると、周囲が海に囲まれていることの他にひとつ、他の都道府県との違いが浮かんでくる。

それは「北海道」という名称だ。東京や大阪のみならず、国内ほぼすべての都道府県名は「都」「府」「県」を取ったとしても地名として通じる。

なので、「秋田県は寒い」「長野県は広い」は、「秋田は寒い」「長野は広い」と言い換えても通じる。しかし、北海道に限ってはそうはいかない。

「北海道は塞い」「北海道は広い」とは言うが、「北海は寒い」「北海は広い」という言い方はしない。

「道」抜きでは大西洋の海の呼び方に変化してしまう。ではでは、北海道においては、どこまでが地名でどこまでが都道府県名なのだろうか。

専門的にいうと、「東京都」「福岡県」のように都道府県名をつけることを「行政区分」という。北海道については、行政区分と地名が一緒くた。ハッキリしないのである。

「なんだか、テキトーだな」と思っているのは、北海道以外の県民で、「おおらか」で「形にこだわらない」北海道の住人は特に気にしてはいないようだ。

話は変わって、北海道人の道民性をエリア毎にチェックすると、札幌圈の住人は「開放的」、内陸部の住人は「ねぱり強さ」が身上、港町に住む人は「小さいことにこだわらない」。

全体的な大きな特徴は、「素朴」で「実直」なこと。

その原点は明治時代、北海道の開拓に多分に貢献した屯田兵の存在だといっていいだろう。

彼らは本州のいろんな地域からやってきた「混合部隊」であったが、皆がよく仕事をし、今現在の北海道の基礎を築いている。

そういう生真面目で「働き者」の血を受け継ぐ北海道人を、「どさんこ(道産子)」ということもある。

どさんことは、元々は、北海道に放置していかれた南部(岩手)産の馬が北海道内で自然に繁殖したもの。

ニシンの漁期に、出稼ぎ人とともに本州から海を渡り、漁労や荷物運びにこきつかわれて、漁期が過ぎてしまうと捨て去られることがほとんどだった。

後になって、北海道の雪、寒さに耐えた頑強な馬同士が子馬を産み、種を結びつけた。

通常の馬と比較すると小ぶりで外見は良くないかもしれないが、しっかりと働き、強くたくましい。

そんな姿はまさしく屯田兵の歴史を持っている北海道人そのものでもある。その素直な北海道人は、挨拶も「率直」で、かつては「ごめんください」「ごきげんいかがですか」といった、よそ行きの挨拶はしていなかった。

「ままくたが(ご飯、食べたか)」「えだが(居るか)」というような飾り気のない素朴な挨拶が北海道流だったという。

おせち料理は、新年ではなく大晦日から食べる

道内において、おせち料理を大晦日の晩には食べはじめる家族があるという。

これは特に、北海道の人が形にこだわらないことの証だったり、北海道人が年明けまで待っていられないほどの食いしん坊ということではない。

昔は日本各地で大晦日におせちを年越しの料理として食べていたのだ。

一つの説には、月の満ち欠けを目安にして暦(太陰暦)を使用していたころ、大晦日も太陽が沈めばもう正月のはじまりと判断され、空が暗くなると早々に、新年の宴をはじめる家があったという。その名残なのだろう。

さて、道内でコメが取れるようになってきたのは、明治になってから。それ以前は北海道においては水田がなく、コメは本州より海を渡って船で運ばれていた。

そういった貴重品だったので、一般の家でコメを食べるというのは、それこそ正月やお盆、祭りのときくらい。

では、明治までは、なにを食べていたのか?主として頂いていたのは、いま現在も北海道名産として知られているジャガイモ。

それに加えて、近頃ではほとんど獲れなくなってしまったニシンだ。とくにニシンは昔、松前近辺でたくさん獲れたので頻繁に食べられた。

そのため、ある僧は「ニシンは松前のコメなり」といった名言をはき、仏前にはご飯ではなくニンンを供えたんだという。

コメがなければ、坊さんでもニシンを供えるというこの臨機応変さは、「昔ながらの因習や形式にこだわらない」という北海道の道民性の表われだ。

ニシンは江戸の時代より松前や江差(えさし)に群れで次々とくるようになり、沿岸の漁民の懐をも潤わせ、いわゆる「ニシン御殿」も多く建てられた。

ニシンはそれほどにありがたい「訪問者」だったので、松前藩では「ニシン様」のおいでになる頃には、それを妨害してしまいそうなことはあれもこれも禁止した。

やれ、野火を放ってはならない。お寺の鐘も撞くな。火葬してはいけない。凧も揚げるな。ニシンのためなら、鐘が嗚らずに時間が分からなくなったってかまいやしない。

葬式は後回し。子どもは外にでるな。せっかく来てくださったニシン様が火や音におどろいて逃げてしまうのを懸念していたわけだ。

ニシンに注ぐ思いにはものすごいものがあった。

函館にはこのような「新しがり屋」が!

北海道の玄関に位置する函館は、いまでこそ「はこだて」と読むが、明治のころまではさまざまな読み方をされていた。

としても、まったく違う読み方があったというわけではない。要するに発する音の問題だった。

北海道南部の方言の大きな特徴は「濁音化現象」なので、清音に「ご」がつく。なので、「はこだて」は「はごだで」となるのだ。だが、さらに異なった読み方もあった。

1854(嘉永7)年、遠くアメリカよりはるばる日本を訪ねて来た黒船のペリー一行は、開港前に箱館(明治2年に函館と改称)にやってきた。

その際の状況を記録にのこしているが、そこには「Hakodade」あるいは、「HAKODADI」とある。

すなわち、ペリー一行が耳にしたのは「はこだで」、または「はこだでい」と英語(?)っぽく聞こえたようなのである。

このようにして、函館には「はこだて」「はごだで」「はこだで」「はこだでぃ」と4つもの読み方が存在したというわけだ。