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和歌山県に住む人は「お金にうるさく合理的」と言われている?

和歌山県の県民性を表わすことぱの中の一つに「倹約」がある。 

平野部がほとんどない山国での貧しい生活がこの県民性を作り出したという説もあるが、もうひとつ大きな影響を与えたのは紀伊藩の倹約政策といわれている。

お金をムダに使ったりしない

紀伊藩主から徳川幕府第八代将軍に就いたのが、「享保の改革」で質素倹約を励行した徳川吉宗。 吉宗の偉い部分は、倹約を率先垂範したこと。

ふだんの吉宗は、寒い中でも襦袢を着けないし足袋も履かない。食事も朝夕とも一汁三菜で、それ以上は望まず、酒もたくさん飲んだりしなかった。

床の間には掛け軸も花も置いていなかったが、絵だけは好きで、絵具箱と硯箱は御座所(将軍の居室)に置いていた。ただし、硯は書と兼用だったようだ。 

和歌山県人は「お金にうるさく合理的」とも言われるが、吉宗もご多分にもれずムダづかいに目を光らせた。 

あるとき、吉宗は将軍の調理のために毎日、20本以上の大きな鰹節が仕入れられていることを聞くと、係の者を御前に呼んで、目の前で鰹節を削らせた。

係の者は朝から上様に呼び出され、緊張しつつも名誉なことと胸を張り、いつもより気合を入れて削りはじめた。

ところが、夕刻まで一度も手を休めることがなかったのに、削れたのはたったの三本。

つまり、毎日、一七本はムダになっていたということになる。 それを自分の目で確認した吉宗は苦笑して、「これからは一日五本でよし」と定めたという。

武士の棟梁である将軍がここまでやるとは、さすが倹約将軍。

「紀北」と「紀南」でだいぶ違う

和歌山県は木が多い。そこで「木の国」から「紀の国」「紀伊国」となったそうだが、 その旧国名を屋号にしたのが、ご存じ「紀文」こと紀伊國屋文左衛門。

みかん船の大冒険や材木の買い占めで巨万の富を得たという江戸時代の豪商だ。

荒い海もなんのその、船にみかんを積んで紀州から江戸まで運んだ彼の冒険心は、「独創性や進取の気性に富む」和歌山県の県民性をよく表わしているという。 

また、大儲けした文左衛門は江戸の遊里で夜な夜なお大尽遊びをしたが、この「豪胆」で「おおらか」な性格も温暖な気候のなかで成長した和歌山県人の特徴といわれている。

つまり、文左衛門は和歌山県人の典型であり、事業に成功した「ミスター和歌山県」みたいな人物なのだ。 

ところが、これに異議を唱える声もある。和歌山県も広うござんすというわけで、紀北と紀中、紀南では気候も風土も違って、性格もだいぶ違うという。

とくに紀北は大阪や京都に近いため、あえて言えば「勤倹貯蓄」タイプで「金銭にシビア」な人が多いといわれている。

そして、伝えられる文左衛門の豪胆でおおらかな性格は、紀南のもの。ちなみに、文左衛門の出身地は定かではないが、一般には紀中(現在の有田郡湯浅町)と伝えられている。 

なんとも微妙なところで誕生した文左衛門だが、実は、彼のみかん船の大冒険や材木買い占めの成功談はすべてフィクションだという説もある。

それによると、素顔の文左衛門は、幕府の役人に取り入り「公共事業」を相次いで請け負って財をなした政商だった。

そして、文左衛門は好きで豪遊していたわけではなく、大尽遊びの伝説は頻繁に高級役人を接待した話に尾ひれがついたものだという。 

そんな文左衛門の素顔がわかるような、次の川柳がある。 「大きな門を材木で閉めるなり」「しかるに紀文うちでは糠味噌汁」。 

豪邸の大きな門を閂(かんぬき)の代わりに材木で閉じた。ところが家のなかでは、質素に糖味噌汁をすすっていたというわけだ。

どうやら文左衛門は、同じ和歌山県でもとてもお金にシビアな紀北の県民性を代表する人物だったようなのだ。

なぜ?「兵庫県民」とはウマが合わない?

日本の民俗学の二つの巨星、柳田國男と南方熊楠。いまだに、どちらにも多くの信奉者がいるようだ。

この二人、交流はあったようだが、あいにく反りが合わなかったという。そんな二人の微妙な関係も、県民性から見ると、なんとなくわかる気がする。 

柳田は兵庫県の生まれで、「センスがよく」「プライドが高く」「軽い人間が嫌い」という兵庫県人の特徴を見ることができる。