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おのれの信念を貫き通すがんこな熊本県民

「いっちょのこし」は、何人かで食べるとき最後に残った一個に手を出さない「もっこす気質」の表われ。 

がんこだがひたむき、純粋で気が小さい?郷土愛と威勢のよさ は、県名に恥じないくらいの強さがあるようです。        

がんこ者で意地っ張りな「肥後もっこす」の生き方

熊本城を築き上げた加藤清正は、「虎退治」で有名な剛勇の武将だ。清正はまた、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝ったあとも、敗れた豊臣家への忠誠を貫き通した。 

この「自分の志を曲げない」熊本県人の気風を、「もっこす」あるいは「肥後もっこす」といっている。 

こう書くと、とっても男らしくカッコいいが、平たくいうと「がんこ者」「意地っ張り」ということ。高知県(土佐)の「いごっそう」と似ているところがある。 

明治維新のすぐ後にも、肥後もっこすがいた。近代国家へ変わろうとした明治政府は、ひたすらチョンマゲをした武士が刀をぶら下げて歩いているのはみっともないと考えた。

しかし、最初に廃刀を口にした森有礼が殺されそうになったほど、武士の抵抗は強かった。 そこで政府は、「散髪脱刀勝手なるべし」といったお触れを出した。

「断髪廃刀」ではなく「散髪脱刀」と刺激を弱くしたうえに、「勝手なるべし」。すなわち「散髪脱刀せよ」ではなく「散髪脱刀してもいいですよ」と低姿勢に出たのだ。 

これで断髪はなんとか広まったが、武士の魂である刀のほうはそうはいかない。「刀なしでは素っ裸で歩いているみたいなものだ」と頑として譲らない。

しかし、政府も強気で、1876(明治9)年、ついに「廃刀令」を出す。 これにまず第一に反対したのが、熊本の士族の一団。

「神風連」と呼ばれた彼らは、文明開化が大嫌い。その他大勢の武士が断髪したあとも、しっかりチョンマゲと刀を着用していた。

さらに文明開化のシンボルである電線の下はけっして歩かない。どうしても、くぐらなければならないときは、懐から鉄扇を取り出し頭上をはらいなが ら通ったというほどだ。 

その神風連の170余名の武士が、1876(明治9)年に廃刀令に敵対して熊本城に突撃した。

熊本鎮台指令長官と熊本県令を殺害したが、まもなく熊本鎮台兵に鎮圧され全滅(神風連の乱)。 

あっけない幕切れであったが、おのれの信念を貫き通す肥後もっこすの意地を世間に見せたことはまちがいなかった。

でも本当のところは、小心者?

もっこすの気風を持っている熊本県人は、保守的なイメージがあるが、必ずしもみんながそうであるというわけではない。 

幕末から維新の激動期にあって、政治家として大活躍した横井小楠は、開明思想の持ち主で、政治や経済など実際に役立つ学問である「実学」の柤となった。 

ある日、小楠は春日濳庵という懦学者の家を訪れ、朱子学において持論を述べた。 

「肥後の議論倒れ」といったことばが存在するように、熊本県人は目立とう精神が強く、議論をすれば「俺が、俺が」と持論を通そうと熱く語る。

しかし、相手は専門の儒学者。そう簡単には説得されない。そこで小楠、口角泡をすっ飛ばして語っているうちに、お天道さまが2回も昇ったり沈んだりしてしまった。 

そして三日目、小楠はやっと結論を述べようとした。ところが、肝心のことばが出てこない。「どうされました?」「いやいや、その~ちょっと、別室にて考えさせて欲しい」。 

自慢の議論でことばに詰まってしまった小楠は、そう伝えて別室にこもったが、半日たっても姿を現わさなかった。

さすがに気がかりになった潜庵が、「ごめん」とばかり別室を開けてみると、そこはもぬけの殼……。 もっこすの熊本県人は、一見剛毅に感じられても、実は、小心を内に秘めているという。

現代の人々の心にも息づく「加藤清正の知略」

熊本城は天下の名城として知られている。築城した加藤清正は猛将として名高いが、その一方で城づくりの凄腕でもあった。

その清正が築き上げた熊本城の、幾重にもめぐらされた大きな高い石垣と独特の反りをつけた「扇の勾配」と言われた石垣。

その作りは一見登りやすそうだが、実際に登ろうとすると滑り落ちてしまう精巧なつくりになっている。 

後世の「西南の役」で、薩摩軍は官軍が籠城する熊本城を攻めあぐねて敗れた。その際、西郷隆盛は「清正公に敗れた」と言ったらしい。