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岩手の県民はネバーギブアップで働き者ですが口下手です

「ねばり腰の野心家」は、敵に回すと怖い? 雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ、ねばり強くて働き者。

わんこソバは、物静かで「おかわり」が言えない県民のために誕生した、ともされるほどの口下手。自称 「がんばらない県民」は、実は底力を秘めています!

腰は軽くないが一度決めると強い

1868(慶応4、明治元)年、鳥羽・伏見の決戦で勝った明治新政府軍(官軍)は、旧幕府勢力を一掃すべく東上し、北越や東北の諸藩と激突した。

新政府に従うことを拒んだ北越や東北の諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結んでかなり奮戦したが、やがて敗退、降伏する藩が相次ぐようになって、最終的には新政府軍の勝利に終わる。 

この「東北戦争」で最後まで争ったのが、盛岡城を本拠とした南部藩だった。もっ とも、南部藩は戦いに参戦するのが遅かったので、はじめから終わりまで戦い抜いたというわけではない。

列藩同盟に加盟したものの、当初は戦況をうかがうかのように中立的な立場を保持していた。

しかし、同盟軍の勢いがいいのを目の当たりにして、「ここらで参戦しねえと、まずいんでねえか」とばかりに重い腰を上げたのである。 

南部藩のこのときの対応に、岩手県の県民性がよく表われている。

つまり、「慎重すぎるくらい慎重」で「決断力に欠け」、時として大事なチャンスをものにできないことがあるのだ。けれども、一度腹を決めてやりはじめると、めったなことではあきらめない。

雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ、ネバーギブアップで「ねばり強い」。 結果として、東北戦争では意を決して参戦したのに、その後、同盟軍が劣勢になり、南部藩も降伏する結果になってしまった。

最初に決めたからにはねばり強くとにかく頑張るのだが、運が味方しないというか、ついていないというか……。

思慮深さは「牛のごとし」? 

岩手県人は容易に泣き言を言わないという。 それには、長い間、飢饉や凶作に遭ってしまった歴史が深く関係している。1695(元禄8)年、北日本を襲った大飢饉では4万人の餓死者が出てしまった。

その期間、凶作もつづき、藩の財政難は慢性化したが、さらに1755(宝暦5)年、またも大飢饉が襲い、餓死者は5万人を数えた。

天保年間(1830~44年)にも飢饉がつづき、重い税負担に我慢できなくなった農民は、大規模な強訴や打ちこわしを起こしたほどだ。 

こういった厳しい自然環境で生き抜いた歴史をもつからだろうか、岩手県人は「がまん強い」。 

岩手の農村評論家大牟羅良は、昭和20年代から30年代の岩手農民の困窮した暮らしと心の内を書き、「ものいわぬ農民」(岩波新書)と題した。

不平不満がいっぱいあっても囗に出さない、岩手の農民の特徴を見事に言い表わしている。 

また、晩年を岩手で過ごした詩人の高村光太郎は「岩手の人」という詩のなかで、「岩手の人 沈深牛のごとし」と書き記した。

冷静沈着で思慮深いという意味の「沈深」はともかく、「牛のごとし」は素晴らしい。これくらい岩手県は「口下手」としてよく知られているのだ。 

南部藩第二十六代藩主南部信直は、京都の鷹商人から豊臣秀吉が小田原城攻めを始めたと聞き、顔色を変えた。

小田原を平定すれば、次の奥羽平定は必至であり、すぐに秀吉のもとに参陣し忠誠を誓わなければ藩の命運がつきてしまう。

しかし、いま藩内は感じの悪い状態で、藩主の信直が国を留守にすれば反乱が起きるおそれが高かった。

そこで、信直はとりあえず使者を派遣しようと思って、家臣の顔を思い浮かべた。けれども、誰もが口下手でお国訛りがひどく、立ち居振る舞いも田舎じみている。

とても秀吉の前で信直の思いを伝えられそうになかった。すると、状況を勘づいた鷹商人が使者として名乗り出て、無事、本領安堵を得たという。 

だが青森県の項でもふれたが、この時に南部領だった津軽は、津軽為信が秀吉に支配を同意してもらい、南部から簡単に手離れしてしまう。口下手はやはりやっぱり損をするのか?