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三重県人は筋金入りののんびり屋!ちょっとのことでは驚かない?

「関西」とは違う、でも「近畿」でもない?三重県は高校野球のエリアの区分けでは「近畿ブロック」に置かれている。ことばも関西人みたいだ。

そういうことならと、国内に会員を持っている組織が、三重県の会員を「関西ブロック」「近畿支部」等に加えると、予想外の不平や不満を受けるケースがある。 

この辺には「愛三岐」といったことばがあって、愛知県・三重県・岐阜県は同様の生活圏・文化圏というような意識があるのだ。

なので、大阪で近畿支部の打ち合せを開くと、三重県の会員の中には「どうして大阪まで行かなあかんね。私たちは愛三岐ですよって、名古屋の打ち合せに行かせておくんなはれ」と申し立てる人も現われる。

確かに、三重県は南北に縦に長く、県民の気構えも、大阪志向の人もいれば名古屋志向の人も存在するのだろう。 

あまりののんびりぶりに脱帽

どちらにしても三重県は海に接していて、温暖な気象状況に恵まれているので、県民の気質も「穏やか」で「のんびり」している。

他にも、伊勢神宮を参拝する客が絶えないこともあって、古くから商業も発展し、あくせく労働しなくても食べてくることができた。

三重県人ののんびりした性格は筋金入りだ。 伊勢生まれの学者小川経固も「忘却先生」と言われるくらい忘れがひどかったが、そののんびりぶりには脱帽する。

例をあげてみると、経固は一年中傘をどこかに置き忘れしてしまい、毎回毎回奥さんにしかられていた。ある時、経固は笑顔を浮かべながら家にかえってきた。

「きょうは傘を忘れることなく持ち帰ったよ」と誇らしげに言うと、奥さんは「きょうは、傘は持っていきませんでしたわ」-。 

もう一人、江戸時代の俳人であった岩田涼莵も、かなりののんびり屋で、ある時、近辺の桜を見ようと思って草履ばきのまま自宅を出た。

けれども、家をでてから十数日も家に帰らず、ある日、またフラフラと帰ってきた。

本人いわく、花を見ている間に京都の東山に行ってみたくなり、ついでに播磨や須磨などの桜を見て回ったあと、最終的に長崎まで行ってしまったのだという。

どんなにのんびり気質だといっても、家で待つ家族もさぞかし心配したことだろう。それでも、のんびり屋の三重県人は物おじしない。

正直・実直……「伊勢の商人」の血は争えない 

三井財閥の土台を築き上げた三井高利は、「伊勢の商人」のリーダーとしてよく知られている。

江戸の呉服店「越後屋」(三越の前身)を命ぜられると、売り場で現金販売する「店先売り」というその当時では斬新な売り方をはじめたり、「現金掛値なし」というキャッチコピーを広めたりして売り場を繁盛させた。 

ちなみに伊勢松坂で商売をはじめた三井家が、屋号を「伊勢屋」でなくて「越後屋」にしたのは、三井家の祖先が三井越後守と呼ばれる武将だったからといわれている。 

この高利に代表される伊勢商人は、となりの近江(滋賀)商人と並行して商人の鑑として伝えられているが、近江商人と比較すると「毒」がないといわれる。

伊勢商人も近江商人と同じように、「素直」「勤勉」「倹約」を理念として、「まじめ」に労働してきたことに変わりがない。

にもかかわらず、「近江泥棒、伊勢乞食」という風にいわれ、伊勢商人には「穏やかな」イメージがある。 その訳のひとつは、高利が越後屋ではじめたような薄利多売のおかげかも知れない。

高利の時代、幕府も藩も財政が乱れていて高価な呉服には手が出なくなっていた。そういうわけで、高利は「どんなに安い価格で売ったとしても、数多く売れば利益は出る」と踏み、自分自身の名は「高利」だというのに薄利をめざした。

現在でいうディスカウントショップだ。 それから、「おとなしい」印象のもうひとつの訳は、なんといっても伊勢神宮のお膝元であること。天照大神がいつも眺めていらっしゃるところで、あこぎな商売をすることはできない。

伊勢商人は「正直者」をアピールポイントとした。 この商道は皆に支持されて、江戸の街並みにはたくさんの伊勢商人が進出。「伊勢屋」があらゆるところにできた。

このような伊勢屋の商売繁盛ぶりを詠んだのが「江戸に多きもの、伊勢屋稲荷に犬のくそ」といった句。伊勢屋はお稲荷さんや犬のくそと同様、江戸に多く存在する、話題のひとつだったということだ。 

三重県の県民性には、伊勢商人の正直・実直・勤勉・倹約という血が継承されていると考えられている。

けれども、近年、製造年月日をあやふやにし、正直者の伊勢商人とは言えない商売をした販売店があったのは、たいへん残念だった。