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富山県民の一家族あたりの稼ぎと持ち家取得率は全国ナンバーワン!  

とにかくよく働く富山県民の「薬売りの精神」が関係していた。

「先祖をたどってみると、薬売りがいた」というところにうなづけるくらい、男性も女性も、とにかくまじめによく働くのが富山県民。

意味のない無駄買いはしないが。お気に入りには(抜け)目がないらしい。

富山県は「住み良いところランキング」で毎年1位や2位の上位に入る、快適な暮らしが自慢の県。

その訳は行政の成果も伴うが、何と言っても「働き者」だという富山県の県民性によるところが大きい。

その結果、富山県は一家族あたりの収入の高さも、持ち家の取得率も全国1位。とにかくよく働く。その働き者の典型が現在でも有名な「富山の薬売り」。

富山の薬売りの歴史とは?

歴史は古く、元禄の時代、富山藩の第2代藩主前田正甫の時代のころ。

正甫が江戸城に詰めていた際に、他国の藩の殿様がいきなり腹痛を訴えて、七転八倒の苦しみでいた。

そこで、正甫が印籠より反魂丹(気つけ、毒消しなど)を持ち出し、それを服用させたら、不思議なことに、けろりと治ってしまった。  

それを見ていた他国の藩主はたいへん驚いた。「何としてでも、わが藩まで販売しにきて欲しい」と申し込みが押し寄せたため、正甫が自分の国の薬商人にお願いして諸国を回って売るようになったという。

反魂丹の由来に関しては色んな説あるが、よく知られているのはこの正甫開祖説。それからずっと、現代に至るまで富山の薬売りは日本中の家庭を訪れてた。

津々浦々、陽が昇り陽が落ちるまで、一軒一軒訪ね歩くその「ねばり強さ」も富山県人の特性だ。  薬売りには滋賀県や奈良県より訪問してくる行商人もいた。

けれども、彼らの販売スタイル は「ごめん、さよなら」と呼ばれ、いち早く用を終わりにし訪問する件数を増やそうとしたのに比べて、富山の薬売りはお客さんとよもやま話も加え平均30分は話しをする。

そんな一見ムダに感じる時間によって信頼関係を築き上げ、彼らはダントツのシェアを占めるにいたったのだ。 

富山の薬売りは、そんな「誠実さ」「礼儀正しさ」もお客さんから好感を呼んだと考えられている。 

この様にして汗水垂らして得たお金は、郷里で待ち受ける家族に手渡すまで一銭たりとも粗末にしない。

割安な宿に泊まり、昼ご飯はおにぎり。めったにない外食は素うどんが定番。その生活ぶりは「つましい」のひと言につきる。行商の旅から家へ戻ると、疲れ切って一週間ほども寝込んだのなのだという。

医者の不養生ならぬ薬売りの不養生という事だ。とことん働き、ムダづかいもしないで家をもつ、富山の薬売りの気質は現在にも伝えられている。

遅刻は許されません

なぜかと言うと富山県はその昔「越中国」と呼ばれていたが、越中人の生きることに対しての意欲が強いために、「越中強盗」とか「越中泥棒」と表現された。

越中の住む人間は、生きていくためなら強盗でも泥棒でもやりかねない、といった意味だ。当然、これはたとえであり、富山県に強盗や泥棒がいっぱいいるということではない。

現に、その強烈なエネルギーは犯罪ではなく労働に注がれ、富山県に住む人は日本有数の「働き者」であるという称号を与えられている。 

それにしても、なぜ富山の人たちはそこまで一生懸命働くのか? その昔、富山の農民は富山藩だけに限らず加賀藩にも年貢を納めなければならない苛酷な「重税」に苦しい思いをした時期がある。

そのような経験から、為政者というものは民を救ってくれるのではなく苦しめる人間なんだと思い込んだのか「政治家なんてもんは、信用できない。

自分たちの生活は自分でなんとかするがやぜ」という自助の精神が芽生え、富山県人は政治家を除いてみな働き者になった。

そのDNAが子々孫々に継承され、いまも富山県の人々は働き者であるという説がある。ちなみに、富山県を代表する働き者が安田財閥を築き上げた銀行王安田善次郎。

善次郎は年が若いころから勤倹貯蓄に励んだが、富山県の特性である「几帳面」な性格、約束した時間に1分でも遅れた人には会おうとしなかったらしい。

時は金なり、時間にルーズな人は財を築けない。 働き者である富山県生まれの人を上司にもった部下は、間違っても遅刻しないように!ご用心を。