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奈良県民が「保守的」で「排他的」とも評価されている理由

京都より古い都である奈良の住人は、プライドがとても高い。

観光都市であっても年間宿泊者数は全国一少ない、県外への就業率も日本一。日中県内にいるのは他県人ばかり?

のんびり、ゆったりが基本姿勢で、 「生活にあくせく」なんて、ありえない 。

田舎は田舎であっても、ただの田舎ではない  

奈良は大阪や京都から近いというのに、両方の府と比較するとひなびて見える。しかし、東京周辺の埼玉や千葉、茨城・群馬・栃木が田舎っぽく思われるのとは、だいぶイメージが違う。

それは、大阪も京都も及ばないほどの古い歴史を持っていて、大和政権の都が存在したからだ。 都が存在すれば、当然ながら文化も栄えた。

また、古い寺院もたくさんあって、国宝や重要文化財の数は1300以上にもなる、東京・京都に次いで第3位だ。世界遺産も県内に3つも持っている。 

そんなお国柄だけに、奈良県人は文化水準も教育レベルも高い。2009(平成21)年度の大学への進学率は58.8%(順位は9位)で、大阪(10位)よりもランクが高く、「プライドが高い」県民の心をくすぐる。 

食文化を見ても、鶏肉を「かしわ」というのは奈良(大和)が起源である。大和の鶏というのは羽の色が茶褐色で柏の葉の色にそっくりだった。

そこで大和の鶏肉を「大和かしわ」と呼んで、京都の料理によくつかわれたという。 

また、牛乳が日本に初めて入ってきたのも奈良の飛鳥の地である。6世紀ころの大和政権では乳牛を飼って、牛乳を飲んだという資料があるそうだ。

さらに、日本で一番最初に酒造をスタートしたのも奈良で、その残った酒粕をつかってできたのが、名産の「奈良漬け」。 

雑煮にしても、奈良県の雑煮は他県とはちょっと違う。雑煮に入っている餅にきな粉をまぶして食べる。しかし、こうして見てもわかる通り、自慢できるものは古いものが多い。

これも、奈良県に住む人が「保守的」で「排他的」とも評価される原因のひとつかもしれない。

「中間管理職」がたくさんいるという謎 

奈良県は奈良盆地に周囲を守られている日本有数の「安全な県」だ。気象状況は温暖で冷害の心配はなく、肥沃な穀倉地帯として栄えた。

台風の強い風も、城壁のような山に囲まれた盆地が防いでくれるし、とても硬い地盤のおかげで地震もほとんどない。 

そのように恵まれた土地で生活つづけた奈良県人は、生活にあくせくすることがなくなり、「のんびり」「おっとり」した県民性をつちかった。

その県民性は「京の着倒れ、大阪の食い倒れ」に対して「奈良の寝倒れ」と言われている。暮らしの中でにあくせくしない奈良県人は寝てばかりいて、しまいには家を潰すということだ。 

そうはいうものの、実際のところは家を売ったり手放したりする県民が多いわけでなく、いまでも古寺の近くで築百年以上という郷土博物館のような古民家を守りつづけて生活している人もいる。

その一帯は、まるで時間が止まっているように見える。そんな環境のなかで日々生活していれば、のんびりタイプの人が多くなるのは必然なのだろう。 

実際、奈良県の人は埼玉県人と同じように、「出世したいという欲に乏しい」ようで、社長輩出率が低く、中間管理職になる人が多い。

県内で労働する人は年々減少しており、奈良県は県内就業率が全国一低い。つまり、多くの県民が県外へ勤務しているのだ。

その受け皿はお隣の「府」で、奈良県人の8人に1人が通勤(通学)するために大阪・京都へ通ってい るという。

かくして、昼間に、奈良県内にいるのは他県からの観光客ばかり?

迷ったときは、その場に立ち止まる 

明智光秀は、織田信長を討った本能寺の変の後に、中国地方から物凄いスピードで京に戻ってきた羽柴秀吉と戦った。この勝負は「山崎の戦い」といわれ、秀吉が勝利した。

敗れた光秀は、その後、坂本に行く途中で土民に襲われ傷を負ってしまい、自害-。 この戦いでは多数の武将が秀吉に味方につき、光秀の味方をする者が少なかった。

そんななか、光秀が最後の最後まで頼りにしていたのが、大和郡山城主の筒井順慶だ。光秀は順慶にいろんな「貸し」があって、自分自身が信長打倒のために決起すれば、必ず味方してくれるものと信じていた。

また、順慶もそのつもりだった。 しかしながら、常々変わる戦況を見聞きしているうちに、「待てよ。この戦、まだどうなるかわからないぞ」と順慶に迷いが生じた。

そこで、とりあえずは城に籠もり、武器や食糧をたくさん備蓄し、様子を見ることに。その間に、光秀のところからは再三使者が来て、「早く出陣を」としつこく催促されたが、順慶はなかなか腰を上げない。

秀吉側か有利と判断すると、ようやく出陣したが、そのときはすでに決着がつき、光秀は自害したあと。

そこで、秀吉の本陣へおもむき戦勝を祝ったものの、秀吉は「いまごろ来たって遅いでよ、フン」とばかりご機嫌斜めになった。 

順慶はぎりぎりまで戦況を見ながら、中途半端な動きをしたために、後世、きわめて評判がよろしくない。その潔くない史実から、順慶は「日和見主義者」の代名詞となり、「洞ケ峠を決め込む」といったばまで誕生した。 

このことばは「日和見的な態度をとること」をいっており、順慶が洞ヶ峠(京都府八幡町と大阪府枚方市の境にある峠)に陣を布き、そこで眼下の戦況を目にしながら、どちらに味方するかを考えていたことに由来するという。

しかし、前に述べるように、実際には順慶は城から一歩も出ておらず、洞ヶ峠に布陣したのは光秀のほうだった。

つまり、光秀が洞ヶ峠で、「順慶はまだか」と首を長く伸ばして待っていたのだ。 この順慶のような日和見は、戦国の世では当然のことで、国を守り民の生活を維持するためには、日和見や心変わりは珍しいことではなかったという。

それなのに、後世、順慶だけが日和見と決めつけられたようで気の毒ではある。 だが、この順慶の「保守的」で「現状維持」「改革が苦手」という性向は、現代の奈良県の県民性にも通じるものがあるようだ。