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水戸の黄門様がつくりあげた?~「質実剛健」な茨城県民

茨城県に住んでいる人の性格を表わすことばに「三ぽい」というのがある。

これには「茨城の三ぽい」と「水戸の三ぽい」と2通りがあって、前者は「怒りっぽい」「忘れっぽい」「飽きっぽい」、後者は「理屈っぽい」「骨っぽい」「怒りっぼい」。

歴史的には「水戸の三ぽい」のほうが先で、後になれば水戸以外の地域にも多くの県民が住むようになり、「茨城の三ぽい」も言われるようになったのだろう。

その両方の「ぽい」に存在するのがが「怒りっぽい」気質だ。といった話を茨城県の人々にすると、なかには「茨城県人は怒りっぽいだけじゃないんだと。奥が深いんだべな~」と、一変して怒りはじめる人がいるかもしれない。 

結局……どちらの「ぽい」にしても、茨城県人は全般に激情型の人が多くいる。そんな三ぽいタイプがたくさんいるのも、水戸藩の伝統である「質実剛健」の人づくりのたまもの。

とくに「水戸っぽ」(水戸人の気質)は水戸藩の性格が引き継がれたものだといわれる。 

江戸時代の「質実剛健」な人間づくりの結果

水戸の藩士は幼少の時代から強くたくましく育てられた。

歴史的にも、水戸の人は怒りっぽく、幕末の有名な「桜田門外の変」では、20人余りの怒れる水戸の浪士たちが時の大老井伊直弼を襲い、首を落としてしまった。 

どうして彼らはなにをそんなに怒っていたのだろうか? 教科書によると、直弼が天皇の勅許を得ないままに日米修好通商条約に調印したり、安政の大獄で尊攘派の人たちを多数弾圧したりしたからだという。 

しかし、事件がおこった当時、真相を伝える(?)かわら版によると、事件の背後には水戸藩主だった徳川斉昭がおり、この斉昭の直弼に対する恨みが真因だったという。

その恨みとは、直弼の彦根藩(滋賀)が水戸藩に牛肉を売ることを禁正したというもの。  

斉昭は彦根産の近江牛がたいへん好きだった。直弼がそれを知りながら、政敵の斉昭にいじわるをしたものだから、斉昭は「おのれ、直弼。食いものの恨み、晴らさでおくべきか」と藩士をけしかけたというのだ。 

もしこれが本当の話であれば、茨城県人は怒りっぽいというより「執念深い」? 一方で、忘れっぽくて飽きっぽい茨城県人は、怒ったあとは根にもたないさっぱりした県民性だともいわれている。

斉昭が「水戸の三ぽい」でなく「茨城の三ぽい」であったとしたら、日本の歴史は変わったのだろうか。

今現在の茨城県民と「黄門様」の共通点 

テレビでおなじみの「水戸黄門」。ドラマの影響が大きいからだろう、「黄門様」こと水戸光圀といえば、立派な白いひげをたくわえた好々爺の印象が強い。

しかし、当然のことながら、ご老公にだって幼少時代や青春時代は存在した。そんな幼いころの黄門様の話。 あるとき、光圀の父徳川頼房は罪を犯した人を斬り、その首を桜の馬場に置いてきた。

その夜、頼房は7歳の光圀を呼んで、「罪人の首をもってきなさい」と命令した。桜の馬場は江戸・ 小石川の館から4町(約450メートル)ほど離れている。

夜中にそのようなことを命じる親も親だが、顔色をひとつも変えずに、すっと座を立った光圀も怖いもの知らずだ。

馬場に着いた光圀は、真っ暗でよく見えないので、なんと手探りで首を探しあてると、髻 (髪の毛をまとめて束ねたところ)をむんずとつかみ、引きずってはちょっと休みを繰り返しながら父の待つ座敷まで運んだ。

すると頼房は満面の笑顔で喜んで、差していた脇差(わきざし)を褒美に与えたという。 

茨城県人は「水戸っぽ」と言われるように、「骨っぽく」「質実剛健」な県民性が特徴であるが、黄門様は子どものころから筋金入りの水戸っぽだったのだ。

若いころは、かなりの悪さも重ねたらしいが、後になって水戸学と呼ばれる水戸藩の思想的基礎を築いた。水戸っぽは、名実ともに黄門様がつくりあげたのかもしれない。

県民がどうしたって「見過ごせなかった」こと 

しつこいかもしれないが、茨城県人は理屈っぽく、怒りっぽい。その県民の性格が見事に表われた事件(?)がある。 

それは、1956(昭和32年、茨城県に「茨城市」ができたことがきっかけだっ た。

他県の人からすると、茨城県に茨城市ができても、青森県に青森市、新潟県に新潟市、広島県に広島市があるようなもので、「ああ、そうですか」とか「あれ?・ いままで茨城市ってなかったんですか?」というくらいの反応しかしないだろう。 

ところがどっこい、茨城県人のほとんどが、そう温かく見守ることができなかった。 

青森県や新潟県、広島県などのように、そこに県庁所在地があり、誰が見ても県の中心であれば、誰も文句は言わなかっただろう。

しかし茨城県の場合は違うのだ。 茨城県には以前から水戸市という県の中心都市がある。じゃあ、いったい茨城市はどこにあるのかといえば、県の最北端。

水戸市からも遠く、市内には「茨城」の地名のつく町や村はどこにもない。どう考えても、県名と同じ名前を名乗る代表的な市とはいえなかったのだ。

これが、他の市や自治体で生活している多くの県民には面白くなかったらしい。

 「おかしっぺや~。そんな市ができたらよ~、そっちが茨城県の中心地みたいでよ~俺たちのところが田舎みたいに思われちまうでねえか」ということだ。